製造現場や設備の保守点検、日々の運用業務において、作業手順書やチェックシートが整備されていても、現場の判断そのものは特定の人に依存している場面が少なくありません。標準的な手順は文書に残せても、「いつもと違う微かな振動があったから念のため点検を挟んだ」「この天候と稼働状況なら先に資材の配置を変えておく」といった、熟練者がその場で下した判断の理由や例外への対応は、日報やマニュアルに書き残されないまま流れてしまいがちです。

こうした現場の知見をどう引き出し、組織の共有財産として次の世代へ引き継ぐかという問いは、多くの企業で共通の課題となっています。2026年10月23日には、広島市中区の叡啓大学において、北陸先端科学技術大学院大学名誉教授・特任教授で同大学客員教授の内平直志氏を招いたイブニングラウンジ「生成AIによる現場の暗黙知の抽出と活用」の開催案内が告知されています。この講演では、文書化された形式知の活用にとどまらず、現場に蓄積された暗黙的・潜在的な知識をどうマネジメントしていくか、国内の最新動向や研究が紹介される予定です。参加申込は10月20日12時まで受け付けられています。

内平氏が学会誌で発表した論考の抄録(研究・イノベーション学会『研究 技術 計画』41巻2号)でも指摘されているように、生成AIを活用したナレッジ共有は、文書やマニュアルなどの形式知を検索・要約する領域から実用化が進んできた一方で、現場の暗黙的・潜在的な知識の抽出と活用はまだ発展途上にあります。言葉になりにくい現場の感覚すべてをデジタル化することは困難ですが、本人が言葉として語ることのできる「判断の条件」や「理由」であれば、記録の残し方と整理の工夫によって社内に蓄積できる余地があります。

手順書には載らない「通常手順を外れる瞬間」

「生成AIによる現場の暗黙知の抽出と活用」と題された叡啓大学の内平直志氏の講演ポスター。日時(10月23日17:10-18:50)、会場、講師写真、申込期限が記載されている。
引用元:叡啓大学

現場の知識継承を考える際、多くの場合は業務マニュアルの改訂や作業手順の動画化から着手されます。しかし、後任の担当者が実際に困るのは、マニュアル通りに進められる平常時ではなく、イレギュラーが発生した瞬間です。ベテランの頭の中には、「どのような兆候が見られたら標準の手順を一時中断し、誰に確認を取るべきか」という分岐の基準が存在しています。

たとえば、工場の加工ラインで設備を点検している場面を考えてみます。あるベテラン作業員が、規定のトルクでボルトを締め直す作業の途中で手を止め、前後の搬送ラインの同期状態を確認したとします。理由を尋ねると、「回転音の周期が普段の立ち上がり時とわずかにずれていたため、前工程の負荷を疑った」と答えが返ってきます。しかし、その日の作業記録に記載されるのは「規定箇所の点検・増し締め完了」という結果だけであり、「異音の周期という状況」「前工程の負荷を疑って作業を一時止めたという判断」「確認先として搬送ラインを見たという理由」は記録に残らないことが珍しくありません。

後任者がこの記録だけを見ても、なぜその日だけ作業完了までに時間がかかったのか、あるいは将来似たような異音が生じたときにどこを確認すべきかは伝わりません。手順そのものよりも、「いつ、どのような兆候を見て通常の手順を外したのか」という境界の判断こそが、現場で最も失われやすい知識です。

すべてを数値化しようとせず「本人が話せる理由」を切り取る

職人の勘や身体的な感覚、長年の経験で培われた直感のすべてを、データやプロンプトで完璧に取り出すことはできません。温度や湿度の肌感覚、手元のわずかな抵抗といった身体知を無理に形式化しようとすると、かえって本質から外れたり、記録自体の負担が大きすぎて現場に定着しなくなります。

現実的なアプローチは、本人が言葉にして説明できる範囲に絞ることです。具体的には、「その時、何が起きていたか(状況)」「何をしたか(判断)」「なぜそうしたか(理由)」「通常と何が違ったか(例外条件)」の4点に限定して言葉を引き出します。

広島県内でも、現場の教育や技能定着に向けたデジタル技術の活用が進みつつあります。広島県が公表した令和8年度ひろしまAIサンドボックス事業補助金の採択結果では、株式会社Shared Valueと株式会社ヒロテックによる「製造業向け社内教育プラットフォームの開発」など、現場教育に関わる実証プロジェクトが選定されています。各企業がそれぞれの現場課題に応じてどのような実装を進めるかは個別の取り組みによりますが、製造の現場において教育や知識伝達の仕組みを見直す機運が高まっていることが伺えます。

デノフが考える、判断理由を蓄積・活用する社内運用の設計案

では、日々の業務負担を増やさずに、ベテランの判断理由を後任が探せる仕組みをどう組み立てるべきでしょうか。デノフでは、以下のような「短い入力から構造化し、必ず人の目で確かめてから保管する」設計が一つの現実的な仮説になると考えています。これは完成した自社製品や実証済みの保証値ではなく、現場の負荷を抑えながら運用を成立させるための設計案です。

1. 作業直後の短い音声やテキストによる状況記録

作業終了後や休憩に入る前の数分間、スマートフォンや専用端末に向かって、本人が気になったことだけを短く吹き込む、または箇条書きで入力します。「3号ラインの立ち上げ時、いつもより低音の唸りがあったため、ベアリングの温度を測ってから稼働させた」といった、数十秒程度の短い発話で十分です。長文の報告書を書かせようとすると作業の手が止まりますが、口頭の要約であれば負担を小さく抑えられます。

2. 状況・判断・理由・例外の項目へAIで分類・下書き化

入力された断片的な言葉をもとに、大規模言語モデルを使って情報を整理します。「設備名:3号ライン」「発生状況:立ち上げ時の低音の唸り」「実施した判断:ベアリング温度の測定後に稼働」「理由:低音の唸りがあったため(詳細な懸念や判断理由は未記録)」といった形で、本人が述べた情報の範囲にとどめて項目ごとに分類したテキストの下書きを自動作成します。発話に含まれていない理由はAIが推測で補わず、未記録のまま残して必要に応じ本人への確認で補う設計にします。ここで重要なのは、AIに原因の診断や安全基準の合否判定をさせないことです。AIの役割はあくまで、人間が話した事実と理由を読みやすい項目へ整理することに限定します。

3. 本人による原文との突合と修正承認

自動整形されたテキストは、そのまま確定データとせず、必ず発言した本人が確認します。音声の文字起こしミスや、意図と異なる理由づけがされていないかを画面上で確認し、誤りがあれば直した上で保存します。元の音声や入力原文も一緒に紐づけて保持しておくことで、後から「本当に本人がそう言ったのか」という文脈へ立ち返ることができます。

4. 日付・設備名・現象の条件を添えた社内検索

蓄積された記録は、設備名や日付、発生した現象のキーワードと合わせて社内から検索できるようにします。後任者が似たトラブルに直面した際、「3号ライン 立ち上げ 異音」といった条件で検索すれば、「過去にベテランがどの箇所を測り、どう判断したか」という記録と理由が、当時の状況とセットで画面に表示されます。

安全基準と既存ルールの優先、社内管理の注意点

このような仕組みを検討する上で、何よりも優先されるべきなのは現場の安全規則と権限規定です。蓄積されたベテランの過去ログは、あくまで後任者が状況を理解するための参考情報であり、緊急時の停止基準や正式な点検チェックリストを上書きするものではありません。設備の停止や異常処置に関する最終判断は、社内の安全基準や現場責任者の指示に従う運用を崩してはなりません。

また、情報の取り扱いについても組織内での事前合意が必要です。工場内や作業現場での録音が許可されているエリアの確認、顧客企業の設備情報や製品の製造条件など機密情報の持出し制限、データの保管場所が外部に漏れない閉じた環境になっているかなど、取り扱うデータの範囲をあらかじめ明確にしておくことが不可欠です。

まずは「一人・一工程」から小さく検証を始める

社内全体へ一度に展開しようとすると、入力ルールの徹底やシステムの調整だけで多くの時間を費やすことになります。まずは、属人化が深刻な特定のベテラン社員一人、あるいは特定の設備一工程だけに絞って試行することをお勧めします。

最初に取り組む際は、過去の点検記録から数件の架空データや匿名化したメモを作成し、手元のツールで要約させたときに意図通りの項目へ分かれるかを試してみるのが手軽です。その上で、実際に現場で数日間メモを取ってもらい、「本人の確認作業にどれくらい手間がかかるか」「後任者がその文章を読んで、判断の背景を納得できるか」「質問や確認の往復が実際に減るか」を観察します。期待した情報が残らない場合は、プロンプトの調整だけでなく、音声メモを吹き込むタイミングや質問項目の見直しを行います。最初から全自動を目指さず、手作業での確認負担と得られる知識の価値を天秤にかけながら、段階的に進めることが定着への近道です。

現場の業務整理とシステム連携のご相談

ベテランのノウハウを次の世代へ残す取り組みは、単に高機能なAIツールを導入するだけでは定着しません。手元のツールで小さく試行を重ねながら、現場の担当者が無理なく入力できる導線や、人が介在して安全と品質を担保する仕組みを整えることが基本となります。その上で、記録の保存先の一元化や運用上の必要性に応じて、既存の社内システムや日報ツールとのデータ接続を検討していくのが現実的です。

デノフでは、Webサイトや社内業務システムの受託開発から、中小企業の業務に合わせたAI活用支援までを一貫して提供しています。自社でも実務にAIエージェントを取り入れている経験を生かし、業務の棚卸しやツール選定、現場に合わせた小規模な導入設計を支援しています。

「日報や作業記録が属人化しており、後任への引き継ぎが進まない」「既存の管理システムに音声やAIの要約をどう組み込めるか相談したい」といった段階から、現在の業務フローと利用中のシステムを整理し、現実的な検証範囲を具体化するお手伝いが可能です。現場の知識継承に向けた一歩をご検討の際は、ぜひデノフへご相談ください。